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April 2014

April 09, 2014

原発事故から2年を経て いまさら子供たちが去った理由

 2011年原発事故が起きた。 広島、長崎、チェルノブイリ、ビキニ環礁、、過去の悲劇に基づく映画や書籍などに触れていた人なら容易にその時何が起きているのか予測可能な事態だった。
高い放射性物質を含む雨が降り注いでいた頃、僕を含めてどれくらいの人が新しい生活の場である家を建築していたのだろう。
数年を費やして、100件近くの土地を見て回り資金計画をして、子供たちがのびのび育つように河川敷の伸びやかな水と空と土に恵まれた最高の場所に、素材にもデザインにもこだわって家を造った。
その最中におきた原発事故。
子供たちのためにと配慮した全てが、裏目に出る事になった。豊かな土地、河川敷の伸びやかな景色、存分にボール遊びや自転車遊びや虫取り、魚釣りが出来る環境は、事故後にはもはや除染の困難な高線量地域でしかなかった。

 ガーデニング、家庭菜園、バーベキューなどを楽しむために広くとった庭は、事故後3年を経た今も除染されず、家族も足を踏み入れる事は無いまま、、。 送られて来る固定資産税の請求に怒りをとおりこして泣きたい気持ちになった。 レフ板のようにそそり立つ土手からは比較的高い放射線が家の中にも注ぎ込むため、子供たちはできるだけ窓側には行かせず、眠るときも比較的放射線量の低い一階のリビングで自分の体でガンマ線を遮蔽するように夫婦が庭側に並び、寄り添うように子供たちを寝かせる日々が2年続いた。 二階にある寝室も、二つある子供部屋も事故後使用出来ないまま、3年が経った。

 それでも、地元の工務店が工夫と技術の粋を集めて建ててくれた新しい家は、外遊びの出来ない環境にあっても子供たちが家の中でサッカーをしたり走り回ったりと退屈する事無く伸び伸びと屋内で過ごせる懐の深さをみせてくれた。 周りの友人の多くが、県外へと母子避難をする中、僕らはなんとか爺ちゃん、ばあちゃん含めて家族総動員で、通学するにも習い事にも、友達の家にいくにも車での送迎が必須となったこの地で事故後2年間を踏ん張った。
国や、東電、そして僕ら地域の再生への努力に一縷の望みを託して踏ん張った、、事故後、刈れば放射性廃棄物と也処理のしようが無くなるとの事で行政から放置され伸び放題となった公園や土手は自ら草刈機一式を購入して自力で整備した。 近所に残る幼い子供が遊びに来る公演も、自費で除染した。来る日も来る日も、少しずつできる事をやっていった。

 しかし、行政や地域への期待は脆くも崩れた。いや行政の現場はベストを尽くしてくれているのだけれど、地元住民向けの根本的な対策をないがしろにしたまま県の健全性を無理矢理アピールする事だけに腐心するトップが根拠も無く県産米の安全性を大々的にアピールした直後に基準値越えの放射性物質が報道されるなど、地域の生産者の努力を踏みにじるような事態が続発した。 
 遊ぶ場所も無い子供たちが1uSV/hrを超える公園や草原で遊ばざるを得ない状況の中、県は観光アピール、観客誘致を優先して地域の除染等そっちのけで、大きな観光イベントを相次いで招致し数時間しか滞在しない観光客向けに、線量も高く無い祭り会場の国道のアスファルトを膨大な費用をかけてパレードの区間だけ剥ぎ取って対外的な見かけ上の放射線量を下げる除染を行なうなど、目に余る状況が続いた。 すぐ傍の未除染の草原で子供たちが遊んでいるのにだ、、。 2011年以来、毎年行なわれていた町内会での側溝の泥上げは、上げた泥が放射性廃棄物になるので中止されたまま、、以来、子供たちが通学であるく歩道の側溝の蓋の下は一度も土砂上げ、汚泥上げが出来ないまま3年を越えた今も放射性物質を含む汚泥が蓄積し続け放置されていたり。 対外的なイメージアップのキャンペーンに多大な予算を割くのに対して、地域の子供たちや住民に対するケアは乏しい。
 
 学校も、事故当時大人たちですら抵抗を禁じ得ない県産米をいち早く県産農産物支援の名目で小学校給食に優先的に割り合てるなど、まるで”だれも買わずに余ってるんだから、子供たちに喰わせてしまえ”というような耐えがたい方針がまかり通ったり。 暑夏に窓も開けられない学校で学ぶ子供たちのために、近隣市町村ではいち早く教室へのエアコンが導入されたのに、その有効性の議論はともかく猛暑の当市では、多くの要望にもかかわらず児童たちへの配慮はまったくなされず、扇風機がある、、などとの理由で設置は見送られつづけたり。結局、3年を経て市長が交代したり大手家電メーカーが寄付したりして今更になって導入が始まっているが、これは放射線だどうのという問題ではなく、市や市教委が子供たちの事を真剣に考えていたかどうかの試金石だったわけで今更もう不要だろう。 この地は地域産業の復興以外に興味は無く子供たちに予算を使おうとはしていないということを痛感。これでは子供たちを人質にとられているようなもので、これを機に、多くの父兄が不信感を確定的なものとして市を離れていった。

<市のHPより>
Q.放射線により窓を開けることができないため、小・中学校へエアコンを設置してほしい。(平成24年6月4日更新)

A. 学校施設においては、子どもたちを放射線の影響から守るため教育課程の変更や工夫とともに生活指導を通じて影響を最小限にするよう取り組んでいます。市としましては、これまでに学校施設の放射線量の低減対策として校庭をはじめ校地内の表土の除去などの除染作業をすべての学校で実施してきており、現在では屋外・屋内とも大幅に放射線量が低減しているほか、大気中には放射性物質はないことから砂埃がたつような強風時を除いて窓の開放は十分可能となっています。
 空調設備の対応につきましては、市立73校で約1,000の普通教室が対象となりますが、全体的に節電が求められている中で、想定される消費電力や各学校の現行の受電設備で対応できる条件など総合的な判断から、昨年、小・中学校については扇風機(普通教室各4台)と、特別支援学校(小学部の一部)についてはエアコンを設置したほか、中央地区などの学校を中心に普通教室の窓ガラスに遮熱フイルムを設置するなどの暑さ対策をおこなっております。また、学校の自主的な取り組みとして「緑のカーテン」の設置費用を予算の範囲内で市が負担することとしています。さらに、熱中症対策としては授業中でも随時、水分補給ができるようにするなど子どもたちの健康管理に配慮した対応をしておりますのでご理解くださるようお願い申し上げます。

そんなこんなで、遠方へ避難された一部の方々が経済的、職場的その他諸々の事情で望まぬ帰還を余儀なくされ始めた事故後2年目、、2年間なんとか状況の好転を期待しつつ多額の生活コストに絶えながら踏みとどまっていた僕らは、ついに堪忍袋の緒が切れ、子供たちをここから出す事に決めたのでした。放射線の影響がどうの、、というよりも、育ち盛りなのに自由に泥遊びしたり、魚釣りしたり、虫取りしたり、友達の家に自由に遊びに行ったり出来ない不自由さと、この地の農業、観光、産業復興優先、子供軽視の行政の在り方や教育トップの危機管理能力の欠如、無策無神経ぶりに耐え難くなったから、、。 また、そんな地にあってことあるごとに子供達を守り切れない親としての力不足に苛まれる事に疲れ果てたから。 行政と産業、農業や漁業に従事する祖父とその嫁、地域、家庭内とあらゆるスケールでの利害の対立、認識の分断が複雑に絡まり、互いを傷つけないように、ただひたすら沈黙を守り理不尽に耐えるしか生きる術がなくなっているこの地から、ほんの数10Km移動するだけで、世の中が一変するわけで、、。
しかしながら、それはそれでまた、新たな困難と苦悩を手にする事にもなるわけだったり、、。


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